踊りませんか。

きれいなもの至上主義

ヅカヲタと恋愛の話

 30代で独身なんて最近では全然珍しくもないのに、世の中には「恋愛の話は誰に対してもテッパン」と勘違いしている層が存在するので、よく「結婚しないのか」「彼氏は作らないのか」と聞かれる。特に歳の離れた男性、いわゆるおじさんたちはそのような話をしてくることが多い。おじさんとは会社、しかもごくごくたまの飲み会とか他部署との横断プロジェクトでくらいしか接する機会が無いのだが(わたしのいる部署は平均年齢が低い)、わたしとの共通の話題は「恋愛」しかないと思っているのだろう。それを聞かれるたびにわたしの返す答えは「結婚願望が無いし恋愛もしたくない」一択だ。

 その回答を聞くと、だいたい彼らは「信じられない」みたいな顔をする。おじさんたちの中でも異性関係に積極的なタイプが多い職場なので、こういう価値観に触れるのが初めてなのだろう。信じられないものになんとか理由を付けようとわたしについての周辺情報を脳内検索して、そして一つの結論を導き出す。「それってタカラヅカが好きだから?現実見なよ〜」

 何度その台詞を言われたか分からないのだが、最近はもう言葉で反論するのも面倒くさくて「……(失笑)」という反応で済ませている。相手が結構偉いおじさん(役員とか)だったりしたときは「話せば長くなりますが全然違います」くらい。もし対象が異性芸能人だったら余計に決めつけが酷かっただろう。しんどい世の中である。

 

 そこそこの年齢で未婚で、かつ手の届かない人物に熱を上げていると頻繁に聞くこととなる「現実見なよ」という台詞。この台詞はわたしにとっては以下の3点において的を外している。

  1. わたしはジェンヌに恋をしているからヅカヲタをやっているわけではない
  2. 現実を見たところで恋愛や結婚に対して興味関心意欲は沸かない
  3. そもそもアドバイスを求めているわけでもないので、わたしの生き方に口出しされる筋合いがない

 

1. わたしはジェンヌに恋をしているからヅカヲタをやっているわけではない

 ヅカヲタにも様々な愛の形がある。わたしはどちらかといえば親心的なものの方が強く、そりゃあもし万が一彼女に結婚してくれと言われたら秒で結婚するけれども、基本的に彼女を恋愛対象として見たことはない。贔屓はあくまで「ずっと幸せでいてほしいひと」であって、別にわたしのことなんか認識さえしてくれなくて構わないのだ。よく友人たちには「重い」と笑われるのだが、とにかく彼女が彼女の望むように、幸せに生きてくれればそれがわたしの幸せだ。

 余談のようなそうでないような、わたしは現実世界で接する人間に対してこんな気持ちを抱いたことがない。一番近いのは二次元の推しに対しての気持ちだろうか。この気持ちを言い表すならば「じいやとして大切にお育て申し上げた姫を慈しんでいる」という表現がいちばん近い気もするが実態と一箇所も合っていないのでなんだか言いづらく、加えて「真っ直ぐ舞台に取り組む真摯な姿勢に対する尊敬」みたいな要素が入っていないのですべてを説明しきっているわけでもない。この気持ちをなんと表したらいいか、ずっと考えている。

 

2. 現実を見たところで恋愛や結婚に対して興味関心意欲は沸かない

 わたしは基本的にひとりでいるのが好きだ。恋愛経験が無いわけではないけれども、恋愛中の自分はなんだか違和感があって嫌いだった。感情のコントロールが極めて困難になるあの感じは、わたしが思い描く理想の自分とはかけ離れたものだ。前項でもわかる通り基本的にわたしは愛が重いのだ。手の届く範囲の人にそれが向いたとき、その重みぶんの力で自分自身が振り回されてしまう。

 大昔、2年くらい続いた初めての恋人と別れたとき、ショックを受けつつも数週間後ふと漏れた感想は「ああ、正常に戻った」だった。感情の暴走こそが恋愛の醍醐味だと仰る向きの言いたいことも分からないでもないけれども、わたしはそんな自分がどうしても好きになれない。それを押してでも恋がしたいくらいの相手と出逢ったなら話は別だが、わざわざ自分を嫌いになる機会を探しに行く気にもならないのだ。わたしは自分のことを好きでありたい。

 もちろん、恋愛そのものを否定するわけではない。愛を描くのが至上命題であるタカラヅカにハマっているくらいだし、恋愛映画や漫画、小説も好きだ。ついでに他人の恋バナはめちゃくちゃ楽しい(最近は周りがほとんど既婚者なのでとんと聞きませんが)。恋愛はテーマとしてはとても興味深いが、それが自分に降りかかってくるのは遠慮願いたいのである。

 …と、そんなことを話すと「でも寂しい時はあるでしょ?」とか訊かれるのだが、これがまた全くない。かれこれ10年以上「寂しい」とか「誰かといたい」とか思った覚えがないのでホンモノだと思う。もともとかなりぼっち志向が強く、むしろ人といる時間が長すぎると疲れてしまうのだ。遊んでくれる大好きな友人たちもいるし職場でも人と相対する時間が長いので、わたしの寂しさメーターはそれであっさりリセットされてしまう。それゆえ、恋愛に興味関心および意欲を向ける材料が一つもないのである。

 というか別に寂しかったとしてもそれは自分でした選択の結果なので構わないし、耐えられなくなったらまた自分でどうにかするので大丈夫です。「愛する人の存在が “良い人生” には不可欠」という価値観を否定はしないけれど、時折、少し窮屈だ。

 

3. そもそもアドバイスを求めているわけでもないので、わたしの生き方に口出しされる筋合いがない

 恋愛の話というのは他人との関わり方という意味でわりと人の生き方に関わってくるものだと思うのだが、他の同様の話題に比べて他人がなぜか口出しをしてきやすい。こちらからアドバイスを求めたのならその限りではないが、そうじゃない限りどんなに含蓄に富んだアドバイスであろうとわたしにとってはクソバイスである。そういう意味では、たとえ「現実世界で恋人が欲しいがジェンヌにガチ恋している」という場合においてもアドバイスを求められない限りはクソバイス。「現実見なよ」というのは「恋人が欲しいがジェンヌ級にきれいでカッコよくてかわいい人じゃなくちゃ嫌だ、どうすればそういう人と出会えるのかアドバイスをください」などと尋ねられた場合においてのみ有効な返答であって、その他の場合には何ら聞く必要のない言葉なのだ。

 

 もはやただの愚痴に理屈をつけて長文にしただけ感があるが、ヅカヲタ(というかわたし)が悩まされがちな「現実見なよ」問題について日々思っている「そういうことじゃねえんだよ」を言語化してみた。この話は以上です。