踊りませんか。

きれいなもの至上主義

月組公演『グレート・ギャツビー』感想①

 気づいたら公演が終わっており完全に時期を逸した感がありますが、グレート・ギャツビーの感想をまとめておこうと思います。

名作の再演がやってきた

 と言ってもこれまでも月城さん(月城かなとさん)は『THE LAST PARTY』に始まり『ダル・レークの恋』『川霧の橋』などさまざまな名作に挑んで来られているのでものすごい驚きというわけではなかったのですが、とはいえ大劇場公演で1本もの、しかもイケコ演出でグレート・ギャツビー!となるとこちらの肩もぶん回ってしまいます。現代的リアリティのあるお芝居で名作の再解釈をさせたら今の月組は天下一品だぜ!という気持ち。

 ファンも多いという本作、わたしは原作小説をだいぶ前に読んだことあるだけだったので公演前に予習しようか迷ったのですが、結局特に予習をせぬまま臨みました。結果的に良かった気がする。公演が始まってから瀬奈さんのバージョンを拝見しましたが歌詞は同じでメロディが違う楽曲が結構あり、前バージョンを親ギャツビーにしてしまっていたら初日違和感を覚えたかもしれない。数年前から原作や初演のあるものに関してはマイ初日が開いてから見たり読んだりすることにしているのですが、今回もそれで正解だったと感じています。

 あとこれは完全に余談ですが、ギャツビーの発表が通常のタイミングよりだいぶ早く「これなんかあるんじゃないの……」と怯えていたところ、単純に宙組ハイローをFLY WITH MEと同時に発表するためには順番的にその前の公演であるギャツビーを発表しておかねばならなかったというただそれだけだったっぽくて笑いました。その後ありちゃん(暁千星さん)の組替えが発表されて死んでしまうわけですが……。

グレート・ギャツビーとわたし

 突然の自分語りで恐縮ですが、わたしが初めてグレート・ギャツビー(小説)を読んだのは高校生の頃でした。当時ゆる〜いハルキストを気取っており、春樹が本作を好きだと公言していたため手に取ったのだと記憶しています。今となってはなぜ村上春樹が好きだったのかすら思い出せないのですが……。今は村上春樹版の訳書が出ていますが当時はまだ出版されておらず、読んだのは確か新潮文庫野崎孝氏の訳だった……気もしますがそれも覚えていない。唯一覚えているのは読後「胸糞悪っ」と感じたことだけです。今より数段ピュアで潔癖で夢見がちだった17歳の少女にとって人間の持つ酷薄な身勝手さとそれを容赦なく描くシニカルな視線はなんだか受け入れ難かったのでしょう。大人になってしまった今改めて原作を読むと登場人物がみんな不完全なところがむしろこの作品の魅力であろうと思うのですが、同じ作品に人生の異なるタイミングで触れることの面白さはそういうところにあるのかなと思ったりします。その「人生の異なるタイミングで複数回触れる作品」がまさかグレート・ギャツビーになろうとは全く思っていなかったのですが(自分にとって大事な作品になりそうな予感とか高校生時点では全くなかったので)、その巡り合わせも含めてわたし自身にとっても大事な作品になってしまった。人生の中で複数回読んだ小説ってよく考えたらギャツビー以外では『細雪谷崎潤一郎)』と『きもの(幸田文)』くらいでは……?

 そんなわけで原作の魅力は「登場人物がめっちゃリアルに自分勝手」なところだとわたしは思っています。ギャツビーのことをあっさり切り捨てる(まあ彼女は彼女で必死だったんでしょうが……)デイジーをはじめ、家父長制&階級社会を煮詰めたようなトム、欲求に正直すぎるマートル、どうしようもない嘘つきのジョーダン……。主人公のギャツビーもわたしからすると結局デイジーのことをトロフィーとして見ているだけという印象なのであんまり好感を持つことができず唯一まともなのはニックだけなのですが、でもまあ人間ってこうよね!!結局人間なんてどこまで行っても完璧ではあり得ないし、まあちょっと本作の登場人物はさすがに身勝手が過ぎんかとは思いますが、でもきっとみんな一皮剥いたらこんな感じなのであろう。フィッツジェラルド自身色々問題のある人だったらしいし、シニカルかつ繊細なのに野心があるタイプだったんだろうな〜生きるの大変だっただろうな〜と『THE LAST PARTY』のスコットに思いを馳せたりしました。そりゃ酒浸りになって身体も壊す……。

タカラヅカグレート・ギャツビー

 一言で言うとグレート・ギャツビーではないがこれはこれで面白い」です。つまりいつものイケコです。人物造形を結構大胆に変えているので、特にデイジーなんかはほぼ別人だし話から受ける読後感が全然違う。でもそこまで変更してなお面白いものにしちゃうあたりがさすがの剛腕である。マス向けのエンターテインメントを作らせたら本当に右に出るものはいないなと思いました。大きな劇場で、様々な背景や価値観を持ったたくさんの人を一度に楽しませるための演出がすごくうまい。ギャツビーがそういうことに向いた題材だとは全然思いませんが(確か小池先生ご本人もそんなようなことを言っていた)、それでもこんなに「エンターテインメント」になってしまうんだなあと感心しました。一本もの特有の中弛みがなくてあっという間に2幕終わるんですよね。毎回「あれ?もう終わった」と思っていて、本当に3時間あるのか?と時計を確認したこともあります。(なんなら5分押しくらいでした)

 ギャツビーは原作よりも献身的な愛の人に、デイジーは原作よりギャツビーのことを特別に思っておりより被害者性が強くなっている印象でした。トムも原作よりギャツビーと同じ土俵に降りてきている感があり、その結果ラブロマンス色がとても強くなっています。原作はどちらかといえば「階級移動に挑む(その結果としてデイジーを手に入れる)」というのが主要な動機になっていると思うのですが、タカラヅカ版は「デイジーとの愛を成就させるために(元々志向していた)階級移動に挑む」という印象。作品としての深みは減ったけどその分わかりやすく、かつ受け入れやすくなったと思います。タカラヅカ、特に大劇場公演に求める読後感は「は〜楽しかった!すごかった!」がメインであろうと思うので(だからフィナーレと大階段でのパレードが必須)、それを考えるとまあ正解なのかな……でも原作が好きという人を連れて行く時は事前に「原作とは別物」という注意喚起をしてから公演に臨んでいました。みんな「これはこれで面白い」と言ってくれたのでよかったです。

場面別感想

 相変わらず長文がマジで長文になってしまう傾向がありここまででだいぶ長いのですが、ここから更に長くなります。ご容赦ください。

第1場・ギャツビー邸

 冒頭からじゅんこさん(英真なおきさん)とニックおだ(風間柚乃さん)の絡みなのでいきなり芝居のレベルがトップギア。運転手さんの喋り方やテンションが日によって違って面白かったです。ギャツビーのパーティはとにかくまゆぽん(輝月ゆうまさん)演じるマイヤーさんがかっこよくてかっこよくて……警察が踏み込んでくる時の余裕の構え、ほんもののイケおじだぁ〜!と湧きました。発砲された瞬間「うるせえなあ」みたいな顔して人差し指を耳に突っ込むのがほんと罪。いつかタカラヅカゴッドファーザーでドン・コルレオーネを演じていただきたい。

 パーティで騒ぐ人たちがギャツビーの経歴についてあれこれ言うくだりで歌い継ぎの最後を担うのがあみちゃん(彩海せらさん)。月組大劇場デビューでいきなり「いや歌うまっ」というのを見せつけられました。しかもたったワンフレーズで。表情(口の開き方)と動きがのぞみさん(望海風斗さん)そっくり。フレーズも振りもちょっとのぞみさんがやってそうな感じなのもあると思いますが、ちょっと激似すぎてびっくりしました。こうやってDNAが受け継がれていくのか。

 あみちゃんの「さあ?知らないね」から始まる「どうでもいいさギャツビーの過去なんて / 今夜が楽しけりゃそれでいい / それがGatsby's party」というフレーズがとても好きで、ギャツビーのパーティに来ているゲストたちの軽薄さや、好景気に沸くアメリカの刹那的な狂乱がすごく伝わってくるなと思います。ここにいるゲストたちは誰もギャツビーに興味がないし、仮にギャツビーを知っていたとしても人間としてのギャツビーではなく彼の持っている金や彼を取り巻くゴシップを見ているのだろうなと。そのあと出てくるギャツビー(月城さん)が完全に閉じた表情をしているのも併せて、関係性が瞬間的に分かるのがすごくいい。

 銃声、「わたしがギャツビーです」、拍手 という一連の流れは最初「えっ拍手するの!?」と思ったのですが(芝居の流れ的にはない方が……)、これがタカラヅカらしさだなと思い直して身を委ねました。タカラヅカの拍手、伝統芸能みがあって割と好きです。歌舞伎で言う大向う、ここまでセットでタカラヅカなのだ……。そんなタカラヅカ的な登場をしたギャツビーは前述の通り完全に心の扉を閉じ切ったザ・外ヅラをしており、何かあるんだろうな感が満載でした。胡散臭い!(褒めています)

第2場・ギャツビー邸庭続きの突堤

 この場面がも〜〜本当に好きで好きで。Twitterでも一生この場面の話をしていたわけですが、もうとにかく月城さんのお芝居上手が大爆発している。それを受けるおださんもお芝居が上手いので、グッと引き込ませるような独特の緊張感があってすごくいい場面だと思います。かの名曲『朝日の昇る前に』もここで初出ですしね。

 『朝日の昇る前に』をちゃんと腰据えて聴いたのはこれが初めてでした(一度New Wave雪では聴いていた)。まず歌詞が美しい。「もうすぐ朝の日が昇る / 地平をバラ色に染め上げて」の情景描写があまりに美しくて最初のフレーズで心を掴まれてしまいました。メロディは壮大で、ギャツビーの描く夢の大きさ果てしなさを感じさせます。背景の空が徐々に明るくなっていき、向こう岸の緑の光が魅力的かつどこか不吉に明滅するところも素敵でした。こちらに背中を向けてワンフレーズ歌うのも最高。セリの上でこちらに背を向けて歌っている月城さんが貫禄に溢れていて、オペラを下げて聞き入るのが好きでした。振り返った瞬間にオペラを上げて「今日も顔がかわいい!」と確認するわけですが……(確認したらまた下ろす)。

 歌い終えてまた向こう岸を眺め始めるとニック登場。声をかけられて「おはようございます」と一言、そのあとの沈黙で垣間見える警戒心と探るような視線がたまらん……じっとニックを見据えているその顔がやたらと整っているのも威圧感に結びついており、月城さんの顔面が芝居にめちゃくちゃいい影響を及ぼしている……!と感動しました。黙っているとちょっと怖いタイプの美貌。ニックが「隣に引っ越してきました〜」と自己紹介している間にちょっとめんどくさそうな顔で視線をニックから外すところはギャツビーにとって入江越しにブキャナン邸を見つめるこの時間が非常に重要で大事な時間だったのだと感じさせることができて巧みだな〜と。そのあとパッと外ヅラを作って嘘の経歴を披露するところはなんだか芝居がかっていて、その上で「隣人のあなたにだけは"真実" を知っていただきたいと思いましてね」とあえて強調するように言うことで嘘っぽさを強めている。相手をうまくおだてつつ "ギャツビー劇場" に巻き込んでいくような人心掌握術を使う人なんだな〜という輪郭が浮かびます。細かい台詞回しが本当に緻密かつ効果的。そのあとの「自慢話を披露するつもりじゃあなかったんですよ」はすごく胡散臭い!笑 が、ギャツビーのこんがらがった自意識と承認欲求が窺えてすごく好きな台詞です。勲章見せるところは最初見たとき「いや持ち歩いとんのかい」(フランツのネックレス@エリザか?)と思いましたが、原作改めて読んだら持ち歩いてました。イケコのせいじゃなかった。

 ギャツビーの作り込まれた怪しさを受けるニックの鷹揚と言うべきかスッとぼけていると言うべきか、ちょっと大らかすぎるところもすごく好きです。ギャツビーに引きずられず "普通の人" の立ち位置をしっかり守った上で「向こう岸のイーストエッグに誰かいるのですか」とか「恋人ですか」とかナイスなパスをしてくれる。ギャツビーは「バレましたか」とか言うけどそりゃそんな顔して向こう岸見てたら誰でも分かるわ(顔見えてないけど分かるぞ)。勝手に「永遠の恋人」とか言うところはこのすぐあとに爆発する気持ち悪さの片鱗が見えてますが、それを完全にスルーして「あなたのような全てを手に入れられた人に想われるなんて、幸せな人ですねえ!」とか言ってくれるニックは本当にいいやつ。ギャツビーも「そうでしょうか」に嬉しさが出ちゃっている。とはいえこの「そうでしょうか」に若干不安げで自嘲的な響きが混じっているのもすごくいいなと思っています。

 「ぼくも向こう岸に知り合いがいます」のくだりを聞いているギャツビーはカフスをいじくったりして露骨に興味なさそうなのですが(ニックじゃなかったら興味のなさがバレて嫌われてるぞ)、トムの名前が出た瞬間に動きを止め、恐る恐る妻の名を問う。デイジーの名前が出るとともに目にライトを入れてキラッと光らせるのが巧い。月城さんは目が本当に饒舌。デイジーの話が出た途端に心の扉が突然フルオープンになり「わたしの車で送らせましょうか」と食いついてくるあたりからだいぶ正気ではない感じですが、ニックは大らかなので「謎のギャツビーさんとお話しできて光栄です♪」とか言って流してくれる。間違いなく大物の器。

 そのあとのナンバー、『デイジー』に震え上がりました。怖すぎる。歌い出しからうっ……とりしてるうえに照明がピンクでしかも月城さんがよくお芝居でやるあの夢を見るような瞳が全開なので、すべての相乗効果により完全にこの世にないものが見えちゃってる人。月城ギャツビーの何がこんなに怖くて気持ち悪いかってたぶんあの瞳で、デイジーへの愛が純粋かつデカすぎて怖いんですよね。人間って普通そんなに誰か特定の人に捧げられないのよ……というタイプの怖さ。この人まともに見えるけどもしかしてないものを見ちゃってる……?という。観劇中エリザのルキーニを時折思い出したのですが、表出する方向が違うだけで中身は似ているのではないかと思いました。その怖さが全部このナンバーに詰め込まれているため、わたしの中で恐怖のテーマみたいなポジションになってしまった。劇中流れるたびにヒェッとなってました。また曲調も夢のようだから余計に怖い。

第3場・デイジーの邸の居室

 ニックが今度はブキャナン邸に。瀕死の白鳥を踊ることを夢見るデイジーとそれを「無理よ」とばっさり切り捨てるジョーダン、ゴルフを教えてあげるというジョーダンに「そんなの何が面白いの」と言うデイジー、やられてやり返してという間柄なのは分かるけど自分がそういうコミュニケーション取るタイプじゃないのでちょっとヒヤヒヤしてしまうな……。「あたしたち親友なの」と言うけどたぶんものすごく気が合うとかそういうことじゃなさそう。原作ではルイヴィルからの付き合いという設定だったけど、確かに幼少期のコミュニティが同じでなんとなくずっと付かず離れず関係が続いている(でも本質的に気が合うわけではない)友だち、と言われるとそんな感じの距離感なのかもしれない。それにしてもうみちゃん(海乃美月さん)とみちる(彩みちるさん)の並びは最高だな。綺麗と可愛いが揃っている。

 そしてトム帰宅。トムのことは全然好きになれないけどちなつさん(鳳月杏さん)がかっこよくて色々と判定がブレる。『アメリカの貴族』はもう歌詞が排外主義血統主義人種差別満載で最悪なんだけど曲が楽しくて好きになってしまうので悔しい。また「今に黒人の大統領が現れるかもしれないんだぜ」のくだりがオバマ→トランプを経て至る現状で聞くとなんかこう……お前らみたいなのがいるから……!みたいな気持ちになりますね。いや実際のところはトランプ政権を生んだのは "アメリカの貴族" たちではなさそうですけど。でも歌詞にある「全て俺たちの祖先が築いた / 後から来た移民や奴隷に明け渡しはしない」っていうのが全ての基礎だと思うので、結局のところ原因はそれだろと。楽しい曲のわりに現代に至る問題がめちゃくちゃ表れてて色々考えさせられるんですが、果たしてそこまで意図して作られてるのかはちょっと分かんないです。初演1991年当時にこの曲があったかは分からないのですが、2008年月組当時もまだオバマ政権誕生前だったし……1年後だったら「今に黒人の大統領が〜」の台詞に更に文脈が乗っかって面白かっただろうな。トムの読んでた警告書からゆうに90年近くかかりましたけどね、黒人の大統領の誕生。(そして女性の大統領はまだ現れていない)

 そして給与労働者としてはニックに収入を聞くくだりはちょっと失礼すぎんかと思うわけですが、デイジーが「週に!?」とか言い出して失礼を上塗りするという。ニック怒っていいよ!でもたぶん全然馬鹿にするつもりでの問いかけじゃないのが分かるから怒る気にもならないんだろうな。トムにとって人間の価値というのは "生まれ" であって金じゃないし、デイジーにとっても金は遣うだけあって当然なのでそれで人を評価しようというつもりは全くないんでしょう。ただ純粋に数字が小さかったからびっくりしちゃっただけ。当時の80ドルって現在の価値にして100万円ちょいくらいらしいので、高給取りではあるんですけどねニックも!

 そしてパメラ。原作では存在だけ言及されて登場はしないパメラ(2歳)ですが、あえて赤ん坊にして登場させたのはデイジーを現実に引き戻すための重石となるものが必要だったからかなと。原作はデイジー自体がずっとフワフワと移り気でそのとき目の前にいるものに縋るのでその役割は不要だったのでしょうが、本作だとずいぶん自分の意志とギャツビーへの愛がはっきりしているのでそれを捨てて現実に戻る理由付けが必要だったんだろうと思います。それを子ども=母性に負わせるのは個人的に結構キツいので若干勘弁してほしいところはあるのですが……。母は子のために自らのすべてを犠牲にせよという価値観とかなり近いところにある気がしてちょっと。しかもデイジーが自分からパメラのことを考えて判断するのではなくて、ギャツビーやトムに「パメラがいるんだ」と言われてようやく動くところがな……せめて自らの選択であって欲しかった……。母性を人質に取られて行動を強いられる様子は見ていてつらいです。母が子どものためになんでもしてあげたいと思う気持ちは否定しませんが、それは他人に強いられていいものではないはずだ。あとトムはパメラがいるんだとか言う資格ないです、子どもを抱く様子が明らかに育児参加者のそれではないし。別にデイジーもめっちゃ育児してたわけではないと思いますがトムに明らかに "親" としての行いが不足しているのは分かる。「貸して」と言うデイジーが明らかにめちゃくちゃイラついてて、ずっとトムに対して喧嘩腰なのもあってもう夫婦関係破綻してるんだなというのがなんだかリアル。そんなところに少女時代の美しく儚い夢だったギャツビーの名前が出たらそりゃ冷静じゃいられないですよね。

第4場・街路〜ウィルソンのガソリンスタンド

 マートル登場。フラッパーのナンバーめちゃくちゃ好きなんですよね、フラッパーガールを「可哀想で不幸な戦後の娘たち」と表現するところも、「長い髪とスカートばっさり切り捨て / モラルも捨てたの」という歌詞も当事者から出てきたものというよりは外からどう見られているかだと思うんですが、それを当のフラッパーたちが歌うことで皮肉っぽく、それの何が悪いの?と笑い飛ばすような力強さが出ていると感じます。

 じゅりちゃん(天紫珠李さん)のマートルはすごくスタイルも良く可愛いので、本当に「うっかり夫を間違えてしまった」感がすごい。原作では身の程知らずという感じで描かれていましたが、じゅりちゃんのマートルはタイミング次第ではそこそこの上昇婚が狙えただろうし、それがゆえの飢餓感や貪欲さがあるのかなと思いました。

 灰の谷にやってきたトムとニックに対してきゃあきゃあ言うフラッパーたちが可愛い。姉と同じように金持ちの "王子様" を捕まえようとするキャサリンが子どもっぽくていいです。「ふたりはたがいに、ふこうなけっこんのぎせいしゃなの〜!」がいかにもどこかのドラマや小説で聞き齧ったテンプレをそのまま現実に当てはめているようで、身近に起こった事件に浮き足立っている様子。りり(白河りりさん)がまたお衣装のせいかなんか肩幅狭い幼児体型に見えて妹感すごいんですよね。こないだあんなにアダルティにコブラ歌ってたのに……。

 ドクター・エクルバーグの看板に「神の目にも見えるなあ」と漏らすニックに「わたしもそう思うんですよ」と食いつくウィルソンがそこはかとなく不気味。腺病質で鬱屈した感じが終盤の悲劇を予感させて怖いです。顔面だけ見たらカッコいいのに全然それを感じさせない。るうさん(光月るうさん)本当にうまいよなあ、と毎回言ってる気がしますが本当にうまいので仕方がない。

第5場・ニックの部屋とジョーダンの部屋〜デイジーの家の前庭

 「うんめいのかみに、かんしゃします!!」事件。出逢ったときデイジーに言われた「運命だったのよ!」がその後のギャツビーの行動と人生を決めてしまったのだと思うとめちゃくちゃ罪深いのですが、デイジーも大概本気だったしこのデイジーは誰彼構わずそういうこと言ってそうではないので許します(原作のデイジーは人の気を惹くのが病的に上手い人なので誰彼構わずそういうの言ってそう)。まさかギャツビーが「二人は運命で結ばれている」というのを真実にするために入江の向かい側に家建てたりニックに頼んで偶然を演出してもらったりするとは思ってなかっただろうし……。

 ルイヴィル時代のデイジーがいかにも「今まで思い通りにならなかったことなんてひとつもありません!」て顔をしていてすごくいい。気まぐれというよりはわがままそうな印象ですが、そこに悪意はなさそうなんですよね。自分のしたいことは全て叶えられて当然だし、その裏で誰かが割を食ってるかもしれないなんて思いもしない感じ。ジュディはわりとその割を食う役回りが多かったんではないかな〜と察します。だから姉の秘密を掴んだときは嬉しかったんじゃないかなと。カメオのブローチ、ちょうだい!で済むあたりはまだ子どもって感じで微笑ましい。

 花を配るエディとキャッキャしてるルイヴィルの若い娘たちがひたすら可愛いです。すぐ中尉さんが出てきてしまうのであんまりちゃんと見られてませんが、上手端でみうみん(美海そらさん)とほたるちゃん(静音ほたるさん)とまのんちゃん(花妃舞音さん)が3人でなんかやってるのが可愛くて可愛くて。そして出てくる中尉さんはめちゃくちゃ下級生と並んで出てくるのでなんとなく面白いです。素でガチガチの子たちにくっついて芝居でガチガチを作ってる人がおる。胸張りすぎておもろい姿勢になってたりして兵隊さんたちも可愛いです。花を付けてもらうくだりで日によっては並んでる女の子たちを押し退けてギャツビーのところに駆け寄るデイジーが見られるときもあり、それがすごく好きでした。「運命なのよ!」とか言ってるけどさっきめちゃくちゃ押し退けてきてた〜!ドヤ顔が可愛い〜!運命の神に感謝〜!

第6場・ルイヴィルの森

 柳の森ってどんな感じなんだろうと思って画像検索してみたのですがどうにも日本の神社しか出てこない。でもきっとディズニー映画に出てきそうな、いかにも王女さまが囚われていそうな森なんでしょう。ちなみに今のルイヴィルはこんな感じだそうで↓

f:id:natsu05:20221023060905j:image

大都会。https://matadornetwork.com/read/12-facts-louisville-will-surprise/

 わたしがデイジーの親だったら、森番と乳母扱いされたら泣きます。何不自由なく育ててきてこれか〜い。実際デイジーはほぼお姫さまに違いないので、あと足りないピースは「王子さま」だけなんでしょう。お姫さまは王子さまがいないと完成しないところがつらい。王子さまには王さまからの迎え=血筋が必須なのもそれはそれでつらいですが……。それだけはいくら努力してもギャツビーには絶対に手に入れられないものなので、デイジーとの圧倒的な違いを見せつけられるようで悲しくなります。でも曲や二人の様子はキラキラしてて美しいんだよな〜。ここの二人が美しくて幸せそうであればあるほど後の別れが辛く悲しく、そして再会後デイジーがギャツビーの熱量に流されていくことへの説得力も生まれてくるのでそれでいいんですが、わたしの心は千々に乱れている……。デイジーの夢で王子さまが求婚するくだりを聞いているギャツビーの表情がなんとなく照れているような何かを言いたげな感じで、「あっこの人求婚するつもりだ〜」というのが分かって可愛い反面大丈夫かな……と不安にもなりました。夢の中にいる状態で結婚してもロクなことがない!そもそもデイジー(自活できない)のこと養えないでしょ!!と現実世界の労働者としては思ってしまうわけで……。

第7場・デイジーの家の前庭〜ニックの部屋とジョーダンの部屋

 とか思ってたらやっぱりご両親にNGを出されてしまうわけです。まず出征先にデイジーを連れて行けるわけもなし、全ての条件が「無理」と言っているのですがそんなことで恋を諦められたらこの世に悲恋なんか存在しないわな。さちかさん(白雪さち花さん)演じるエリザベス・フェイ夫人がすごく良くて、ギャツビーを詰るでもなくあくまで上品に、それでも有無を言わさず娘との縁を切るように突きつける厳しさが素敵でした。ただ厳しいだけじゃなく背景に色々ありそうなんですよね。そもそも条件的に折り合うわけもないし、何より「わたくしだって娘の初恋を穢すようなことはしたくありません」の声の調子からしてもしかしたら彼女自身も若い頃叶わぬ恋をしたことがあったのかもしれない。当事者だからこそ娘に言う「金持ちの娘は貧乏な男と結婚してはいけないの」が真に迫って聞こえるし、本当に無理なんだなと思える。

 デイジーの大ナンバー『女の子はバカな方がいい』は思い通りにならない世界への当てつけみたいな歌い方がよかったです。うみちゃんが聡明な印象のひとなので、より「その方が幸せなわけないのは分かってんだよでもそうしろって言うんでしょ!?あーあーそうしてやるよそうしろって言ったのそっちだからね!?もう知らん!」感が強い。そういう気分になっちゃうときって……あるよね〜〜。それで人生丸ごともう知らん!てなっちゃうあたりデイジーの勢いもすごいですが、それくらいギャツビーとの別れが彼女の人格形成に与えた影響は大きかったということなんでしょう。「女の子が人の世を知ってしまうと不幸になると言うのね」あたりを聞きながら「いやあんた何も分かってないから……ほんとに……」と思っていたのですが、それは大人になってしまった今だからこそ思えるのかもしれない。何も分かってない子どもが何かが分かった気分になったけど思い通りにならなくて癇癪起こして世界に当てつけをしてる歌、と言うと身も蓋もない感じですが、そういう歌だからこそグッと来るみたいなところがあるのですごくよかったです。あとまあ世界のことを分かってしまうというのは良いことばかりではないので(現状追認からは何も生まれない……)、そういう意味でもすごく大事な曲だと思いました。

 あとどうでもいいけどブローチの話は後にしな!ジュディ!!(エディが「今それ言う!?!?」みたいな顔してるのすごく好き)

 

さすがに長くなりすぎたので分割します!