踊りませんか。

きれいなもの至上主義

戦国武将に憧れて、の話

 わたしの贔屓は “日本物の雪組” 出身で、ご本人も日本物好きを公言しているため武士や町人や大名といったお役をよくやっている。鶏が先か卵が先か、わたしも日本物は大好きだし日本の伝統文化にも比較的興味がある方だと思う。小学校5年生の頃「伝統工芸の継承者が少なくなっていてピンチ」みたいな話を塾で聞いて「これはわたしが継ぐしかないのでは…!?」と真剣に考えたこともある(結局普通のサラリーマンになりました)。

 そんな中で、今わたしが興味を持っているのは専ら「切腹」である。なんかちょっと物騒だが、興味があるのは腹を切ることそのものというよりは切腹に至る精神性の部分だ。雪組バウホール公演『銀二貫 −梅が枝の花かんざし−』で、主人公の彦坂鶴之輔はこう歌う。

どこへ行けばいい 何を目指して どこへ行けばいい 誰を頼りに この命の捨てどころはどこにある

 直前、死にゆく父に「生き続けろ、何があろうとも」とか言われているのにこの発言である。話聞いてた?という感じだが、きっと当時の武家階級の人からすると命は守るものではなく捨てるものなんだろうなというのが印象深かった。

 『銀二貫』以外にも、その精神性に興味を持つ大きなきっかけとなった作品がある。雪組大劇場公演『星逢一夜』。数多くの雪担にトラウマめいた爪痕を残したであろう本作品はわたしの心にも深く刻まれている。その中で贔屓は主人公に何かと突っかかる嫌な性格の大名を演じていたのだが、出番も役の重みもそんなにないはずのそれがわたしにはクリーンヒットしてしまった。たぶん、「血筋」や「家柄」みたいなどうしようもないものを生まれたときから背負わされている人に弱いからだと思う。

 出番の少なさによる飢餓感もあり、公演中、いや公演が終わってからもその大名家にまつわる本を読んだりして情報を集めた。そのお家は室町時代から続く名家で、最も書籍が充実していたのが戦国〜江戸初期の当主たちについてだったので、「ご先祖様…」とか思いながら本を読み、その政治感覚の鋭敏さ、命をかけた戦に臨みながらも文化を愛する姿に贔屓の役とか関係なしに憧れを抱いた。余談だが本を読み終わった頃、贔屓は太陽王治世下のフランスで主人公に何かと突っかかる嫌な性格のイタリア人剣士を演じていた。

 ともあれ、戦国武将めちゃくちゃカッコいい。もうなんか戦国武将になりたい。何かに憧れるとすぐ同化願望を発揮するタイプなのでそう思った。そしてこの時代においても頻出する価値観が前出の「命の捨て所」だった。

 現代人の感覚からすると「いやカッコいいけど命軽すぎない?」といったところである。命のやりとりが当たり前のように行われていた時代だからこその価値観だとは思うのだが、当時の人は死ぬのが怖くなかったのだろうか。戦とかで他人にやられるならばまだしも、切腹に至っては自らめちゃくちゃ痛い思いをして腹を切るのだ、どの時代にあってもそれは怖いし嫌なんじゃないかと思う。わたしはバリバリの現代人なので、愛も誇りも信念も命の危機に瀕したら投げ出してしまう気がする。死ぬのは怖い。痛いなら尚更だ。

 タカラヅカにおいても頻繁に登場する「愛のために命を投げ出す」人。あれも実はイマイチ理解しきれていなかったりする。愛のために死ぬってどういう気持ちなのだろう。「贔屓の写真を踏むくらいなら死ぬ」とか言ったりするけれども、実際に「踏まなかったら殺す」と言われたら多分ほんとごめんと思いながらも即踏む。親兄弟のために死ねるかどうかも分からない。自分の子供だったらどうだろうとは思うが、産んでいないのでこれも分からない。ましてや恋人なんて極論赤の他人である。

 そうそうできないことだからこそ物語になるのだと思うし、自分にない価値観だから観劇に際して本気で感動して泣いたり輝いて見えもするのだが、その気持ちの一端だけでも理解してみたいと思う。愛や誇りや信念やカッコよさ、そういったもののために「自分の人生をここで終わらせてもいい」と思うその気持ちが理解できたら、憧れの戦国武将にもちょっと近付けるかもしれないし、タカラヅカの作品も見え方が変わるかもしれない。

 というわけで戦国武将への憧れが若干変な方向に行っている自覚はあるのだが、今わたしの中では切腹が熱い。もしかしたら何かのヒントになるかもしれないと思って茶道も習い始めた(今のところ入門すぎて何のヒントも得られていないです)。これについて何か理解が進んだらまたご報告します。今回は以上です。